最近孤独死について、悲観的なイメージで報道されているのをよく目にします。
死んだ後発見されるのが遅かったから可哀想?無縁仏で可哀想?
みなさんどう思われますでしょうか。
私はむしろ、死ぬ間際まで自分の意思で好きなように生きれてよかったのではないかと思います。
死んだ後のことなんて本人には関係ないですし。
周りが勝手に感じているだけのことです。
もちろん中には発見が早ければ助かったという命はあったかもしれませんが。
なぜそう思うようになったかというと、施設に入られている利用者の悲壮感が半端ないからです。
本人の意思で、進んで、喜んで入所されるなんてケースは稀。
大概は家族の意思です。
利用者本位の原則なんて理想はありますが、本人の希望なんて通らないと思っておいた方がいいです。
絶対的にキーパーソンです。
本人の介護度や施設形態にもよりますが、基本ご家族がOKしなければ外出もできませんし、好きなものも買えません。
ちょっと自宅を見に行きたいという方、結構いらっしゃいます。
長年住んだ家には思い出の品もたくさんあることでしょう。
しかし叶いません。
もうそれらを自由に手に取ってみることもできないんです。
すでに家自体処分されているケースもあります。
かつていた自分の空間は消滅し、生きた痕跡は年に数回会うか会わないかの子供や孫だけ。
今まで積み上げてきたものってなんだったんだろうと私なら思ってしまいそうです。
いつでも帰りたい時に帰ってきていいよ、なんていう家族はいません。
家族だって自分たちの生活があります。
社会的に優先すべきはそちらです。
だからと言って高齢者を蔑ろにすべきとは思いませんが、でもどちらも譲れないとなると落とし所は難しいですよね。
もちろん幸せに施設で過ごしている方もいらっしゃいます。(知らんけど。)
しかし現実、施設に囚われて不自由を強いられるという点は共通かと思います。
施設にいるからといって、医療体制が万全でもありません。
病院ではないので。
そしていつも誰かが見てくれるわけでもないです。
大抵巡視時に亡くなっているのを発見するので、結局死ぬ時は一人です。
独居に比べて発見が早いか遅いかの違いです。
人生のラストスパート。
好きなものを好きなだけ食べて、好きなだけゴロゴロして過ごしたいなぁ。
でも施設だとそんなことすら叶わない。
日本人のソウルフード、お餅も食べられなくなるので、今のうちにたくさん味わっておきましょうね。
絶望的な現実ばかり描きましたが、少しは自分ごととして共感できたでしょうか。
全ての世代でうまく機能する福祉システムができますように。
大改革に副業組の皆さんの知恵が必要かもしれませんね。
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